はじめに:「終身雇用は終わった」は本当か
「終身雇用は崩壊した」——この言葉はメディアで繰り返し語られてきました。しかし実際のところ、2025年の日本において終身雇用制度はどこまで変化しているのでしょうか。経営者の発言やニュースの見出しだけでなく、データに基づいて日本型雇用の現在地を検証していきます。
2019年、トヨタ自動車の豊田章男社長(当時)が「終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」と発言し、大きな話題を呼びました。経団連の中西宏明会長(当時)も同様の見解を示し、日本の雇用慣行に対する疑問が一気に表面化しました。しかし、こうした経営者の言葉と、実際の雇用データの間には、少なからずギャップが存在しています。
データで見る日本の雇用実態
勤続年数の推移
終身雇用の実態を測る指標のひとつが、平均勤続年数です。厚生労働省「賃金構造基本統計調査」によると、日本の一般労働者の平均勤続年数は2023年時点で約12.1年です。この数値は2000年代初頭からほぼ横ばいで推移しており、劇的な短縮は起きていません。
厚生労働省「賃金構造基本統計調査」(2023年):一般労働者の平均勤続年数は12.1年。男性は13.5年、女性は9.9年。
OECD(経済協力開発機構)のデータを国際比較すると、日本の平均勤続年数はドイツ(約10.8年)やイギリス(約8.0年)より長く、アメリカ(約4.1年)の約3倍にあたります。つまり、国際的に見れば日本の雇用はいまだに「長期雇用型」の特徴を強く残しています。
転職率の変化
一方で、転職市場には明らかな変化が見られます。総務省「労働力調査」によれば、2023年の転職者数は約328万人で、前年比で約15万人増加しました。転職者比率(就業者に占める転職者の割合)は約4.9%で、コロナ禍前の2019年の水準を上回っています。
総務省「労働力調査」(2023年):転職者数は約328万人。転職者比率は4.9%で前年比0.2ポイント上昇。
特に注目すべきは年代別の傾向です。25~34歳の若年層では転職者比率が約7.5%と全体平均を大きく上回り、若い世代ほど「一社に留まる」という意識が薄れていることが数字からも裏付けられています。リクルートワークス研究所の調査では、20代の約6割が「転職は普通のこと」と回答しています。
正規・非正規の構成変化
終身雇用の対象は主に正規雇用者ですが、その割合にも変化があります。総務省のデータでは、2023年の非正規雇用者の割合は約36.9%で、全労働者の3分の1以上が非正規雇用です。この比率は1990年代の約20%から大幅に上昇しました。
ただし、この変化は「正社員が非正規に置き換えられた」という単純な構図ではありません。女性の労働参加率の上昇や高齢者の再雇用制度の拡大が非正規比率を押し上げている側面もあり、正社員の絶対数自体は2015年以降増加傾向にあります。
業界別・企業規模別の温度差
大企業と中小企業の格差
終身雇用の実態は企業規模によって大きく異なります。従業員1,000人以上の大企業では、平均勤続年数は約15.3年と長く、退職金制度や年功序列型の賃金体系も比較的維持されています。一方、従業員100人未満の中小企業では平均勤続年数は約9.8年で、人材の流動性が高い傾向があります。
大企業においても変化の兆しは見られます。富士通、日立製作所、ソニーグループなどの大手企業は、ジョブ型雇用への移行を進めています。ジョブ型雇用とは、職務内容を明確に定義し、その職務に対して人材を配置する仕組みで、欧米型の雇用慣行に近いものです。
IT・スタートアップ業界の特殊性
IT業界やスタートアップ企業では、すでに終身雇用的な慣行はほぼ存在しません。エンジニアの平均在籍年数は約3〜4年とされ、スキルアップやキャリアアップを目的とした転職が当たり前になっています。経済産業省の推計によれば、2030年にはIT人材が最大約79万人不足するとされており、人材獲得競争が激化する中で、企業は柔軟な報酬体系やリモートワーク環境を整備して人材の引き留めを図っています。
経済産業省「IT人材需給に関する調査」:2030年にIT人材は最大約79万人不足する見込み。
一方で、製造業や金融業の伝統的大企業では、急激な変化は起きていません。特に地方の製造業では、長期雇用が企業文化として根付いており、技能の継承という観点からも安定した雇用関係が重視されています。
ジョブ型雇用への移行と課題
ジョブ型雇用の導入状況
近年、日本企業の間で「ジョブ型雇用」への関心が急速に高まっています。パーソル総合研究所の調査(2023年)によると、従業員1,000人以上の大企業の約25%がジョブ型雇用を「導入済み」または「導入予定」と回答しています。主な導入企業には、日立製作所、富士通、KDDI、資生堂、三菱ケミカルグループなどが挙げられます。
日立製作所は2021年度からグローバル共通の人材マネジメント基盤を導入し、約16万人の全社員を対象にジョブ型人事制度を展開しました。富士通も同時期に約4万5,000の国内ポジションについてジョブディスクリプション(職務記述書)を策定し、職務に基づく評価制度へと移行しています。
日本型ジョブ型の限界
しかし、日本企業のジョブ型雇用には独特の課題があります。欧米のジョブ型では、不要になったポジションは廃止され、そのポジションにいた社員は解雇されるのが一般的です。しかし日本では解雇規制が厳しく、労働契約法第16条により「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合」の解雇は無効とされます。
このため、日本のジョブ型は「ポジションはなくなっても社員は残る」という矛盾を抱えやすく、実質的にはメンバーシップ型雇用の枠組みの中にジョブ型の要素を組み込んだ「ハイブリッド型」にならざるを得ないケースが多いのが実情です。人事コンサルタントの間では「日本型ジョブ型」という概念が定着しつつあり、欧米型とは異なる独自の進化を遂げています。
年功序列の見直し
ジョブ型への移行と連動して、年功序列型の賃金体系も変化しています。経団連の調査(2024年)によると、回答企業の約58%が「成果・職務ベースの報酬制度を導入済みまたは検討中」と回答しました。特にデジタル人材や専門人材に対しては、年齢や勤続年数に関係なく、市場価値に見合った報酬を提示する企業が増えています。
NECは2023年に新卒初任給を最大で年収約1,000万円に設定する制度を導入し、ソニーグループも特定のAI・データサイエンス人材に対して年功に基づかない報酬体系を適用しています。こうした動きは、まだ一部の先進企業に限られていますが、日本型雇用の根幹にある「年功序列」が揺らぎ始めていることは事実です。
労働者の意識変化と新しい働き方
若年層の価値観シフト
働く人々の意識にも大きな変化が見られます。内閣府「国民生活に関する世論調査」(2023年)では、「収入」よりも「自分の時間を大切にしたい」と回答した割合が20代で約68%に達しました。パーソルキャリアの調査でも、20代の転職理由のトップは「キャリアアップ」であり、「待遇不満」や「人間関係」を上回っています。
こうした若年層の意識変化は、企業の人材戦略にも影響を与えています。新卒採用において「ワークライフバランス」や「成長機会」を前面に打ち出す企業が増え、かつてのような「安定性」だけでは優秀な人材を確保できなくなっています。
リモートワークの定着度
コロナ禍をきっかけに急速に普及したリモートワークは、2025年現在どの程度定着しているのでしょうか。国土交通省「テレワーク人口実態調査」(2024年)によると、テレワーク実施率は全国で約26%、東京圏では約42%となっています。コロナ禍のピーク時(2020年5月の約35%)からは低下したものの、コロナ前(約14%)と比べると大幅に上昇しています。
国土交通省「テレワーク人口実態調査」(2024年):全国のテレワーク実施率は約26%。東京圏では約42%。
ただし、業種間の格差は大きく、情報通信業では約65%が何らかの形でリモートワークを実施している一方、製造業(現場部門)や小売業では10%未満にとどまっています。また、週5日完全リモートワークという働き方は全体の約5%に過ぎず、多くの企業では週2〜3日のハイブリッド型が主流です。
副業・複業の拡大
2018年に厚生労働省がモデル就業規則を改定し、副業・兼業を原則容認としたことをきっかけに、副業解禁の流れが加速しました。リクルートの調査(2024年)によると、企業の副業容認率は約55%に達し、2018年の約28%から倍増しています。
副業を実際に行っている就業者は約305万人(総務省「就業構造基本調査」2022年)とされ、特に30〜40代の会社員が副業に積極的です。副業の内容としては、コンサルティング、Webライティング、プログラミング、SNS運用代行などのスキルベースの仕事が多く、月額の副業収入は平均で約5〜10万円程度とされています。
国際比較:日本の雇用は本当に特殊なのか
OECD諸国との比較
日本の雇用慣行はしばしば「特殊」とされますが、国際比較するとどうでしょうか。OECD雇用保護指数(EPL)を見ると、日本の解雇規制の厳しさはOECD平均とほぼ同水準です。むしろフランスやドイツの方が解雇規制は厳しく、「日本だけが特別に解雇しにくい国」というイメージは正確ではありません。
長期雇用慣行についても、ドイツの「アウスビルドゥング」(職業訓練制度)のように、企業と労働者の長期的関係を重視する国は他にもあります。日本の雇用が「特殊」に見えるのは、むしろアメリカの雇用流動性が国際的に見て突出して高いためであり、日本が世界標準から大きく外れているわけではないのです。
韓国・台湾との比較
東アジアの近隣国と比較すると、韓国も日本と同様に大企業における長期雇用文化が存在します。しかし韓国では、1997年のIMF経済危機をきっかけに雇用の流動化が急速に進み、現在では大企業正社員の平均勤続年数は日本より短くなっています。台湾も同様に、特にIT・半導体業界では人材流動性が高く、転職を通じたキャリアアップが一般的です。
今後の展望:2030年に向けて
人口減少と労働力不足
日本型雇用の今後を大きく左右する要因は、人口減少に伴う労働力不足です。国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、2040年の生産年齢人口(15〜64歳)は約5,978万人で、2020年の約7,509万人から約1,500万人減少する見込みです。
国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」(2023年):2040年の生産年齢人口は約5,978万人。2020年比で約1,500万人の減少。
労働力が構造的に不足する中で、企業は「囲い込む」戦略と「必要な時に必要な人材を獲得する」戦略のどちらを選ぶかという岐路に立っています。おそらく多くの企業は、コア人材については長期雇用を維持しつつ、専門人材やプロジェクトベースの人材については流動的な雇用形態を採用する「二層構造」へと移行していくと予想されます。
テクノロジーと雇用の関係
AI・自動化技術の発展も、雇用構造に大きな影響を与えます。野村総合研究所とオックスフォード大学の共同研究では、日本の労働人口の約49%がAIやロボットに代替される可能性があるとされています。しかし、これは「職業がなくなる」ことを意味するのではなく、「業務内容が変わる」ことを意味します。
むしろテクノロジーの進展は、単純作業から解放された労働者がより創造的な業務に集中できる機会を生み出す可能性もあります。問題は、そうしたスキル転換を支援するリスキリング(学び直し)の仕組みが十分に整備されるかどうかです。政府は2023年に「新しい資本主義実行計画」の中で、5年間で1兆円のリスキリング投資を掲げましたが、その実効性は今後の課題として残されています。
まとめ
- 終身雇用は「崩壊」ではなく「変容」の途上にある。平均勤続年数は横ばいであり、国際比較でも日本の長期雇用傾向は依然として強い。
- 転職市場は拡大し、特に若年層の意識変化が顕著。25~34歳の転職者比率は約7.5%で、「転職は普通」という認識が定着しつつある。
- ジョブ型雇用の導入は進んでいるが、日本独自のハイブリッド型に。解雇規制や企業文化の影響で、欧米型の完全なジョブ型への移行は困難。
- 人口減少が雇用構造の変化を加速させる。2040年に生産年齢人口が約1,500万人減少する中、コア人材の長期雇用と流動人材の柔軟活用の二層構造化が進む見込み。
- リスキリングの整備が鍵。AI時代において、働く人々が新たなスキルを獲得できる仕組みの構築が、雇用の安定と経済成長の両立に不可欠。
よくある質問(FAQ)
Q. 日本の企業は今でも新卒一括採用を行っていますか?
はい、多くの大企業では新卒一括採用が依然として主流です。ただし、通年採用や中途採用の比率を高める企業が増えており、経団連も2021年に新卒採用に関する指針を廃止しました。今後は新卒一括採用と通年採用の併用が一般化していくと見られています。
Q. 終身雇用がなくなると退職金制度はどうなりますか?
退職金制度も変化しつつあります。従来の勤続年数に比例する退職金制度から、確定拠出年金(DC)への移行が進んでいます。厚生労働省の調査によると、確定拠出年金を導入している企業は全体の約25%に達し、特に大企業では約50%が導入済みです。ただし、退職金制度自体を廃止する企業はまだ少数です。
Q. 外国人として日本企業に就職する場合、終身雇用を期待できますか?
企業によります。伝統的な大企業の正社員として入社すれば、日本人社員と同様の長期雇用が期待できる場合もあります。しかし、IT企業やスタートアップでは雇用の流動性が高く、スキルや成果に基づくキャリア構築が求められます。また、在留資格の種類や更新条件も雇用の安定性に影響するため、入社前に確認することが重要です。

